長良川の戦い
場  所 岐阜県岐阜市 長良川流域
年  月 弘安2年(1556)4月
参戦武将 斎藤義龍 対 斎藤道三
勝  者 斎藤義龍
案内板等 なし
史跡指定 なし
 
JR東海道本線「岐阜」より岐阜バス「松籟加納」行で「鵜飼屋」下車 徒歩5分
 
長良川の戦いは美濃の蝮と呼ばれた斎藤道三と嫡男斎藤義龍の合戦です。
道三は義龍を愛さず、家督を次男か三男に与えたいと思っていたそうです。
伝えられるところでは義龍は道三の実子ではなく、
道三が旧主の土岐頼芸から貰い下げた側室の深芳野の子であり、
それを知った義龍が道三を恨み挙兵したということになっています。
小説的には面白い話ですが、真偽の程は定かでなく、
実際には家督を譲った道三が美濃の実権を手放したことが惜しくなり、
義龍を廃嫡して次男を表向きの当主として自らが国政を握ろうとしたことに対し、
義龍が憤りを感じて父を討とうとしたことが戦いに至る経緯のようです。
道三の隠居地・鷺山城
 
道三が自分の廃嫡を画策していることを知った義龍は、
病と称して幼い弟たちを稲葉山城へ呼び寄せて殺してしまいます。
この行為を考えると小説などで描かれている義龍の生い立ちも
真実なのかもしれないと思ってしまいます。
2人の弟と義龍は異母兄弟であったことは事実なのでしょう。
ここに義龍は敢然と道三に対して宣戦布告をすることとなります。
我が子を失った道三は山県で戦備を整えます。
大桑城に拠点を置こうとしたのでしょうか。
道三の旧恩に応えるべく集まったのはわずか2千7百の兵でした。
一方、稲葉山城の義龍のもとには1万7千の大軍が集まっていました。
道三は鷺山城に布陣したと言われてきましたが、
実際には稲葉山城の北にある鶴山という山に布陣したようです。
『国盗り物語』では暗闇の中、山を下りる道三が
法螺貝を吹き自軍を鼓舞するシーンがあります。
稲葉山城
 
弘安2年(1556)4月20日、義龍軍の動きに呼応し、
道三も長良川北岸に移動しました。
死兵と化した道三軍は緒戦こそ優位に戦況を進めましたが、
多勢に無勢で次々と新手を繰り出す義龍軍に押しまくられ、
最期は長井忠左衛門と小牧源太の手で首を取られました。
道三の首は首実検の後、鼻を削がれ路傍に転がされたそうですが、
首をあげた小牧源太により手厚く葬られました。
道三塚と呼ばれるその場所は江戸時代に度々洪水の被害を受けたため、
場所を移されて現在も岐阜市の史跡として大切にされています。
道三を救うべく尾張から出撃した織田信長は戦場に間に合わず、
信長は歯噛みしながら撤退したのでした。
 
こうして道三の長い国盗り物語は終焉を迎えたのです。
古戦場付近を望む
 
周辺情報
長良川の古戦場は特に陣跡や激戦地などが特定されているわけではなく、
伝承地もないために石碑や案内板などは設置されていません。
長良川の流路も当時は長良橋から長良川競技場や長良川球場を経て今の学園町付近を流れていたようです。
岐阜城の天守から長良川方面を見下ろしたときに、あの風景のどこかで道三は地上から消えたと想像するのみです。
 
参考資料
図説戦国合戦総覧/新人物往来社