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三増峠の戦い
場  所 神奈川県愛甲郡愛川町 三増峠
年  月 永禄12年(1569)10月
参戦武将 武田信玄 対 北条氏照・氏邦
勝  者 武田信玄
案内板等 石碑・案内板
史跡指定 愛川町指定史跡
 

 
地図は古戦場碑のある場所です
小田急線「本厚木」より神奈川中央バス「愛川バスセンター」で乗換え「上志田」下車 徒歩5分
 
永禄12年(1569)、武田信玄は碓氷峠を越えて関東へ進撃し、
9月10日に北条氏邦が守る鉢形城を包囲し、北条氏照が守る滝山城を攻撃しました。
10月1日には小田原城を包囲しましたが、戦果を上げることなく撤退しました。
相模川を北上した武田軍は10月6日に三増峠を行軍しました。
武田軍の退却路を察知した北条勢は氏邦と氏照兄弟を主力とする
2万の兵を差し向けて武田軍を追撃しようとしたのです。
三増峠古戦場の碑
 
武田信玄は北条方の津久井城を牽制するため小幡尾張守を差し向け、
山県昌景を別働隊として志田峠に向かわせました。
本隊は小荷駄を守りつつ三増峠を進軍し、信玄は小高い山の上で督戦しました。
信玄の本陣は東名厚木カントリー倶楽部というゴルフ場の中にあります。
現地には「信玄旗立松」という看板があります。
ゴルフ場内ですが、道標に沿って行けば見学が可能です。
武田信玄本陣跡
 
戦いは北条軍の鉄砲による攻撃で始まりました。
間断ない射撃により武田の重臣浅利信種が命中弾を受けて討死し、
小荷駄部隊も抜刀して応戦するほどの激戦であったといいます。
武田軍は1万に対し北条軍2万。
兵力と追撃戦という有利さから北条軍が優勢に戦いを進めましたが、
志田峠から引き返してきた山県昌景隊5千が参戦すると北条軍は崩れ立ち、
小田原から進軍中の北条氏康の大軍は荻野まで迫っていましたが、
到着前に味方の敗報を聞き小田原へ引き上げました。
この戦いで武田軍が挙げた敵の首級は3千を超えたということです。
 
首級3千はかなり誇張があると思われますが、武田軍の勝利は間違いないようです。
局地的な山岳戦としては稀に見る大兵力の激突だったようです。
首塚
 
周辺情報
合戦が行われた三増峠は新道ができているため古道は人が通わない山道となっているようです。
山県勢が駆け抜けた志田峠の道は今もそれらしい古道が残っているようです。
周辺は開発から免れた自然豊かな風景が今も残っていますが、
甲相両軍が激突した古戦場というには、あまりにものどかな風景が広がっています。
古戦場碑が建つ場所には両軍の配置図などもありますが、どこまで真実を伝えているかは不明です。
 
参考資料
真説戦国北条五代/学研
図説武田信玄/立風書房
図説戦国合戦総覧/新人物往来社